豊臣秀吉 正面通 京都・観光文化検定3級過去問

【問題】豊臣秀吉ゆかりの寺社が並ぶ『正面通』は、大和大路通から千本通りまでの東西

の通りで、その名前の由来は(               )の正面にあたるからである。

(ア)西本願寺

(イ)東本願寺

(ウ)広方寺

(エ)八坂神社

京都・観光文化検定験 第9回 3級 第59問

【正解】

(ウ)広方寺

それでは、とりあえずは丸暗記!

広方寺と正面通にまつわる歴史の概略は後ほど読んでくださいね(*^_^*)

現在ある大和大路から千本通の東西の通り名、『正面通』の由来は豊臣秀吉が建立した『広方寺』の正面にあたるからである。

広方寺 本殿

出典元 ウィキペディア

出典元 ウィキペディア

🗾こちらが、現在のマップです

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あら?正面通の正面は豊国神社? に見えますよね?

グーグルストリートビューだと、こんな感じです。

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実のところ豊国神社は、広方寺の敷地内にに建てらているのですよ(*^_^*)

⭐︎広方寺について

◆豊臣秀吉は天正14年(1586年)に、焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願しました。

◆天正16年(1588年)に、大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ

ました。また大和大路の西側には伏見街道も整備され、さらに五條大橋を六条坊門に移し京外

への出口とするとともに大仏への参詣の便としました。

◆天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式が行われ、文禄2年(1593年)9月に上棟、文

禄4年(1595年)に完成をみました。

当時の敷地は広大なもので、妙法院はもちろん、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三

十三間堂の敷地をも含むものでした。

現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏

殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重文)や南大門(重文・秀頼が築造)も方広

寺造営の一環として整備されたものです。なお、東寺の南大門(重文)は方広寺西門として

建築されたものを明治になって東寺に移築したものです。

この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったそ

うです。造営期間短縮のため、大仏は銅造ではなく木造「漆膠(シツクヰ)」で造られまし

た。

◆しかし、この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)7月13日に発生した慶長伏見地震によ

り倒壊したのです。

◆秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、善光寺如来(阿弥陀三尊)(当時は

甲斐に在り)を移座して本尊に迎えることを計画しました。

◆慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座されました。

これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり、如来を一目拝もうとする人々が押

し寄せるようになりました。

◆秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥し、これは善光寺如来の祟りではないかということで、

同年8月17日、善光寺如来は信濃の善光寺へ戻されることとなりましたが、秀吉は翌8月18日

に没しました。


◆その後、豊臣秀頼は慶長4年(1599年)、大仏(銅造)の復興を図りますが、慶長7年

(1602年)流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏と秀吉が建立した大仏殿

は焼失したのです。

◆慶長13年(1608年)より再建が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に

立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には大仏に金箔を押すところまで完成。

◆慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばか

りとなりました。

‼ところが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅

寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分

断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の陣による豊臣家滅亡

を招いたとされます。(方広寺鐘銘事件)。

出典元 ウィキペディア

出典元 ウィキペディア

※大仏自体は大坂の陣の後も残されましたが、寛文2年(1662年)の地震で大破。

◆大仏は寛文7年(1667年)に木造で再興され、壊れた銅造の大仏のほうは寛永通宝の原料と

されました。

◆この大仏も寛政10年(1798年)落雷による火災で焼失。

以後は同様の規模のものは再建されませんでした。
◆徳川家康はその摂政である関白・豊臣秀吉の神格化をふせぐために、秀吉死後の翌年の

1598年(慶長3年)に建立された豊国廟、豊国神社を壊滅させ、神号は廃され社殿は朽ちるまま

社領は没収、参道をふさぐように新日吉神宮を建てさせて神体をひそかに移しました。

遺愛の息子 鶴松を祀った祥雲寺を、智積院に与え、方広寺は、妙法院に与え、さらに、方広寺

と本願寺の間には、本願寺を分裂させて、東本願寺を創建し、東向きに阿弥陀堂を建てさせ、

さらにその間に、東本願寺の住職に土地を与え、渉成苑を建てさせ、豊国廟から本願寺の直線

「正面通」を、ことごとく分断し消し去っていったのです。

以下のように、正面通は途中、渉成園、東本願寺で、分断されています。

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💡しかし、江戸時代中期頃から、方広寺から西本願寺へ向かうこの道を、京の街の人々は再び「正面通」と呼ぶようになりました。


◆明治以降

その後、尊王攘夷を経て明治維新1868年(明治元年)に徳川幕府から大政奉還させた明治天皇

が、「秀吉は天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣である」として、豊国神社の

再興を布告し明治13年(1880年)に現在の姿に再建し、その正面は現在「正面通」と地図上に

記されています。

◆関連過去問と解説はこちらをご覧ください

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