聚楽第、御土居堀  京都・観光文化検定3級合格ガイド

🌟なるほど!鞍馬口、丹波口 の『口』の由来がわかりました!

【問題】聚楽第や御土居堀などの建設を行い、京都全体の都市改造を進めたのは誰か。

 

(ア)織田信長

(イ)明智光秀

(ウ)豊臣秀吉

(エ)松永久秀

 

京都・観光文化検定験 第10回 3級 第4問

 

【正解】

(ウ)豊臣秀吉

 

丸暗記しましょう!

豊臣秀吉は、聚楽第や御土居堀の建設を行った。

『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵)

『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵)

◆聚楽第(じゅらくだい)とは

豊臣秀吉が京都における邸宅として建築しました。秀吉は,天正13(1585)年関白に任官すると,翌年から聚楽第の造営を始め,天正15年に完成。

聚楽とは「長生不老の楽しみを聚(あつ)」めるという意味です。「じゅらくてい」とも読みます。

発掘調査の結果,幅30メートルを超す大規模な堀がめぐらされていたことがわかっています。

堀の外には武家屋敷が配置されました。如水町(にょすいちょう,黒田如水<くろだじょすい>)や浮田町(うきたちょう,宇喜多秀家)など町名にそのなごりを留めています。

 

天職19年,秀吉は甥の秀次を関白に就任させ,聚楽第を譲りましたが,文禄4(1595)年秀次を自害に追いやると,聚楽第も破却しました。その遺構の一部は,当時造営中だった伏見城に移されました。

 17世紀初めの「京都図屏風」に描かれた聚楽第内郭の堀跡を附近の現況に重ねた。現在の通りとの位置関係は森島康雄氏の復元案に従った。〈出典元 京都市情報館

17世紀初めの「京都図屏風」に描かれた聚楽第内郭の堀跡を附近の現況に重ねた。現在の通りとの位置関係は森島康雄氏の復元案に従った。〈出典元 京都市情報館〉

 

 

 

◆御土居(おどい)とは?

御土居とは、豊臣秀吉が,天下統一をした後、京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,天正19年(1591)に築いた土塁です。

台形の土塁と堀(堀の一部は川,池,沼を利用)からなり,その延長は22.5キロメートルに及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれました。

場所によって異なりますが,土塁に附属した堀幅は約4~18メートル,土塁は高さ3メートル,基底部の幅9メートル。

土塁の上には竹を植えて盛土を保護していました。

土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口としました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名殘です。

 

〈出典元 京都市情報館〉

 

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月刊京都史跡散策会第7号 御土居配置図

 



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